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research subject
朝野 浩 / Asano hiroshi
個別の支援は関係性から
京都市における総合制・地域制養護学校(現在は総合支援学校)の再編成に向けたマネージメント、保護者参加による個別の包括支援プランなど、学校の組織運営や教育課程編成など、障がいのある子どもとその保護者、関係者への支援のあり方についてなどを、実践的に行ってこられた朝野さん。36年間特別支援教育に携わった中での考えや、個別の包括支援プランを思いついたことなどについて伺いました。

授業の様子 


特別支援教育に携わり始めたきっかけ


ー京都教育大学の教育学部の中の特殊教育(当時)という障がい児を専門にする学科を出ました。学部卒業後、当時は大学院がなく教育専攻科という一年課程のアッパークラスがあり、そこでフレーミングやスキナーなどの行動分析についても勉強をしていました。毎日英語とにらめっこしていましたね。それからは別の大学院へ行こうかと思ったんですが、勉強もしないと受けたものですから落ちてしまい、ぼんやりしていたら、学部の教授に京都教育大学教育学部附属養護学校に来ないかと。それが特別支援教育に進んだきっかけですね。最初は中学部を受け持ちました。2年目には当時の校長が「朝野くん、重複障害の子ども達が中学部に上がってくるので持たないか?」と言われて。僕よりベテランの先生がいてるんですよ? なのにどうして僕に持たすのかと思いましたが、それから中学部を3年間、そのまま高等部を受け持つ流れになりました。高等部では、進路指導主事も引き受けることになり、結局子ども達を送り出すまで面倒を見ることになりました。


進路指導の中でみつけた子どもの目線


ーいきなり進路指導という分からない世界に進んだものですから、先輩の先生にいろいろ聞いたんです。それでも分からないから毎日毎日、東山七条の博物館の裏にある障がい者のための職業安定所に大阪から京阪特急乗って通いました。朝一番にそこに向かって、いろいろとお話を聞いて、また電車に乗って京阪墨染の山の上にある学校に行く。職場の紹介があると言われたらまたトコトコと電車とバスを乗り継いで話を聞きに行く。僕は車を運転しないものですから、とにかく足を使って、公共機関で行く。なんでこんなにしんどい仕事を引き受けたんやろと思いながら過ごしていたのですが、それが後々思えば子どもがこういう所で迷うかも知れへんなと、子どもの目線で通勤経路が分かるようになっていたんです。親御さんにしてみればすごいところまで先生知ってくれてる。となったわけですね。それを発見した時に、これが僕のいいところかもしれないなと思いました。職業安定所も、しょっちゅう通うものですから、信頼をたくさんもらえました。違う班の人まで「朝野さん、ここにこんな仕事あるけどどうや?」とか、「今日は、お昼ご飯ごちそうするわ」って。はじめた頃は分からへんからしゃあない、喰らいつかないといけない。今思えば、進路指導の仕事は、そういった意味で非常におもしろかったですね。

進路指導の担当になり、企業と生徒をつなげる立場を経験されていた朝野さん。その後も単に就職先を紹介するだけではなく、親御さんに対しても納得のいくように話し合ったりと、変わらず足を使って熱心に活動されていました。そんな熱心さが結果として現れたそうです。


ーしんどいのはオイルショックの時の大不況の時でした。 職業安定所の方と二人で夏の暑い時に会社に行っては断られを繰り返しながら、新しい会社を開拓して。せっかく生徒とマッチングしたと思っても、生徒の方が蹴ったり、やめたりして。あー僕は何をしてるんやと。もう、人生のむなしさを感じて、陰で泣きましたよ。そのあと、ある年に担任の先生と、ひとクラス10数名の家を全部回って家庭訪問をしたんです。それも、両親の意見が違うと困るっていうのが僕の持論だったので、両親が2人ともお宅におられる夕方以降に訪問して。「学校卒業したらこれからお父さんお母さんに委ねなあかんところが多いから、意見が一緒じゃないと困る。何かあかんところがあったら話し合いたい」と言って回りました。親御さんに熱心さが伝わったようで、その年の就職率が100%やったんです。今のように障がい者の雇用についての法整備もこれからという時、まして企業もなんでとらなあかんねやという状態の時に100%だった。

授業の様子 

この頃から、子ども達の周りにいる保護者や企業の人たちを巻き込んで支援をしていた朝野さん。当事者の周り全体の関係が大事だとおっしゃいます。その個人を包括的に支援していくことにおいて、何をしてあげることが周囲の人たちに必要なのでしょうか?


一人ひとりの「できる」ところを見つけてあげる


ー自閉症の子どもがいて、その子は挨拶できない子だったんですが、誰かが靴を並べるのを見ると、その他の靴を全部ずらーっと奇麗に並べてくれる良いところがあったんです。挨拶はできないけれど、その子にとって靴を並べるのが挨拶なんだ。これがその子の一番良いところだと言ってあげた。今できているところを見つけて語ってあげる。就職先に紹介する時にはそれがその子の売りの部分になるんです。見つけてあげたり、教えてあげたりすることが結果的に「できる」というところに繋がっていくんだと思いますね。特に日本人はできないところにとにかく目がいきがちですから。また、先生というのはできないところを探すのが一番上手かもしれない。できる事を当たり前だと思ってしまっていますから。「他の偉い人から見たらあなた達もほとんどできない人でしょ? それなのにできないって結果で言われたら腹が立つでしょ? それと同じ事を先生になったとたんに子どもにやってるんやで。」と、よく先生たちに言っています。個別の良いところを皆で気づいて伸ばしていく事が必要と考えています。

子ども達の良いところに気づきそれを言ってあげる。周辺の人たちがひらめきをもって語ってあげることが「できる」を増やしていくことに繋がると仰る朝野さん。しかし、朝野さん自身、気がつきすぎることでつらい思いをしたエピソードもあるようです。


ー学生の時、非常に仲の良かった友達に言われたんですよ。「お前は俺に干渉しすぎや」って。こっちはそんな思いじゃなかったんだけれども友達を無くしかけましたね。それに、同じことを実習の時の先生にも言われました。「細かい事に気がつきすぎるから、子供がしんどなる」「先生にならんほうがええよ」と。悔しかったですね。絶対先生になってやると。今思えば、細かいところに気づくことが僕の利点になっている部分もあるのですが、当時はぐさっときましたね。

インタビュー中の朝野さん 


「先生は結局は親の気持ちが分からへん」


ーもう一つのエピソードを言うと、最初は中学部、次に高等部を受け持ったので、次は小学部を持たしてくれと頼んだんです。子どもの原点を知らずに進路指導をやっていたこともあって。入り口を知ろうと小学部を受け持たしてもらった。その時、一緒にクラスの家族全員で遊びに行ったり、動物園に行ったりと、保護者の方達との関係は良かったんですが、懇談会で2人の子どもを持つ親御さんに「先生は結局、親の気持ちが分からへん」と言われたんです。根本的に先生はまず結婚していない、そして先生はエリートやと。大学も出て、先生という仕事をしている。障がいのある子どもを持つという環境にいないと親の気持ちはわからない、と。だからどこまでいったら親に信用されるんかなっていうのはずっと課題でした。どれだけ僕が知ろうと努力しても駄目なんですかねって。当時、乙武洋匡さんがいろいろ活動なさっていた時、親との会話にあった言葉で「乙武さんは知的の遅れないからね」と言われていたんですが、それも同じでやっぱり他と比較する。それがいろんな事を邪魔するんですね。自分の背丈で頑張ればいいやないかと思うんだけども、世の中が努力をなかなか認めてくれない。いじめの原因と同じで、他を攻撃する。子育ての事で比較しないやり方、生き方。あなたはあなたらしくとか、それを大事にしないと親子の信頼関係を失う事になるでしょうし、教師と生徒との信頼を失うってのがあるんでしょうね。先生はもっともらしい事言うけれど、実のところ勉強のできる生徒とできない生徒で分けているとか、それに子ども達は敏感で気づいてしまうんです。そういったことを考えさせられましたね。

学生と一緒に 

その後も、附属の養護学校で教員として支援を続けておられた朝野さんですが、ある時、学校を変えて支援していくことを決められます。一つの場所で行っていた活動が別の場所でも通用するのか。また、社会全体として特別支援のありかたを変えていかなければならないという強い思いもあったそうです。最終的に、朝野さんの活動は京都市全体へと拡がっていきます。


対人援助学会での集合写真 


全員参加による個別支援


ー僕自身、ずっと付属の学校で教員として働いていたわけですが、教育実習生を受け入れるようになりまして、その実習生が京都市の教員として採用されるようになると、僕も付属の学校以外で支援できないかと考えるようになりました。社会的課題に対して一つの学校でやっていた取り組みを他の場所でも実践したいと考えたからです。そうして全体の課題を少しづつ解決していけたらと思いました。京都市の採用試験を編入という形で受け直し、現在の京都市立白河総合支援学校に移りました。付属の学校に居た時と同じ進路指導の立場に就いたのですが、やはり一から変えないといけないことがたくさんありました。その仕組みからつくっていきましたね。本人だけではなく、もちろん親御さんの意見もちゃんと聞き、家族を巻き込んで進路指導していく。担任の先生とも連携をとって、子どもの良いところや特徴を教えてもらう。それらをちゃんと記録に残す。今ですら当たりまえの仕組みですが、職場の開拓も含めて一からつくり直しました。また、自分が居る学校だけが良くなっても仕方が無いので、子どもの職域が同じ京都市内で、競合となる学校とも集会を作ってお互いに情報交換するシステムも立ち上げました。この会は現在、京都市中の学校が参加し、規模を大きくして続いています。こういった改革は、親御さんからしてみれば先生達が動きすぎて負担になってしまうということがあったかもしれません。しかし、親が言える立場をつくることが大事で、発言することで責任が出てくるんです。同じように先生一人ひとりのことも大事にする。そういった当事者を包括した関係ができることで、一人ひとりへの個別の支援ができるようになると思います。
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「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」
岩崎 夏海 ダイヤモンド社 2009

ドラッガーの「マネージメント」を読んで、自分の役割に当てはめて考えるところから始めるサクセスストーリーだが、教育でいう「一人一人を大切にする」というテーマが見られ、金子みすずの『みんなちがってみんないい』が実行されている。優秀な人材がいるからいい集団、組織となるのでなく、それぞれがマネージメントに参加し、一人一人の長所をもって貢献し、集団を構成するというテーゼが読み取れる。よきリーダーのあり方をも示している本である。
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ボランティアというものを胡散臭い自己欺瞞行為と思っていた私にコペルニクス的転回を起こさせてくれた一冊である。一人の善意ある行為をどのように生かされていくかを「情報」という視点から「連携」から「絆」へと転換してく過程におけるムーブメントを「さざなみ」という表現を使って示されている。私にとってはコミュニティ・スクルールを全国で初めて特別支援学校に設立したときのバイブルとなった本である。
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「空海の風景 <上><下>」
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